self

 夜目にもだんだんその目が曇ってきた。フーッと深い溜息を吐いた。そうしていった。
「……あの赤く見える下に寄席があるんだ、吹抜亭が……」
 銭湯の柘榴口のような構えをした吹抜亭の表作りがなつかしく目に見えてきた。愛嬌のある円顔をテラテラ百目蝋燭の灯に光らせて、性急そうに歌っている父橘家圓太郎の高座姿がアリアリと目に見えてきた、いや、下座のおたつ婆さんの凜と張りのある三味線の音締までをそのときハッキリと次郎吉は耳に聴いた。
「出てえ……やっぱり俺、寄席へ出て落語家がやっててえ」
 何ともいえない郷愁に似たものがヒシヒシ十重二十重に自分の心の周りを取り巻いてきた。ポトリ涙が目のふちに光った。
 と、見る間にあとからあとから大粒の涙はポトポトポトポト溢れてきた。

 笊に間引いた京菜を入れて、上の畑から母が帰えってくる。
「おや、この子は御飯をたべているの。」
「俺はお腹が空いたから三杯食べたよ。それからね……。」
「もっと食べようと思って考えているの。」
「でも何にもお菜がないんだもの。」
「お菜なしで三杯もたべられたら沢山じゃありませんか。余り食べるとまた胃病になりますよ。」
 と話しているところへ、父が種紙を二三枚さげて座敷にあがってくる。

 小川路峠の路のある低い脊梁が、綺麗な青空を背にして次第に近づいてくる。そのところどころ真白くガレた、青い樹木をふんだんにつけた脊梁は、子供の時代好んで駆け廻った中国地方の低山とよく似ていて、親しいものに巡り会ったような懐かしさを覚えた。下平を過ぎ、越久保に着くと、殺風景な自動車路もようやく終っていよいよ峠の山道が始まり、いくぶん新鮮な気分に戻ることができた。初めのうちは霜どけのひどい泥濘で、新しい靴もたちまち泥だんごになって煩わしかったが、登るにしたがって歩き易くなった。地図に書いてあるぼろぼろの観音堂をすぎると、もう初冬の世界である。路傍の裸になった木に小鳥が群れをなして騒いでいる。近づくとそのたびにいっさんに飛び立って、まるで路案内でもするように上手の木に移ってゆく。一人旅の無聊はこんな些細なものによってもよく打ち払われた。